ロックンロール歌手として有名な内田裕也さんが3月17日の早朝にお亡くなりになられたと今朝のニュースで知り、非常に驚きました。昨年の9月15日に亡くなられた、内田さんの妻である樹木希林さんの死から半年しか経っておらず、希林さんが居なくなってしまったことがきっととても寂しかったんだろうなぁとしんみりしてしまいました。
いつもスーツにハット、サングラスでおしゃれにキメていた裕也さん。あのお姿がもう見られないとなると何とも言えない喪失感があります。希林さん死去の時も日本全国そのニュース一色になりましたね。夫婦そろってとても魅力的な方々でした。今回はお二人の馴れ初めからお亡くなりになるまでの夫婦の軌跡について書いてみようと思います。
甘い生活も束の間、波乱に満ちた同居生活
1973年10月、樹木希林さん(当時の名は悠木千穂さん)と結婚。お二人の出会いは、樹木さんが出演されているテレビ番組のスタジオに、内田さんがムッシュかまやつさんを訪ねた際に知り合い、恋におちたそう。出会いから間もなく同棲、結婚となったのですが、度重なる内田さんの家庭内暴力により一緒に住んだのはわずか1年半。内田さんの暴力により希林さんが骨折したり内田さんが度々包丁を振り回して暴れたことが別居の原因とされています。それ以来亡くなるまでずっと別居婚を続けていました。1976年に娘の也哉子さんが誕生するのですが、その時内田さんの姿はすでになし。その内田さんですが、81年に希林さんの同意なしに勝手に離婚届けを役所に提出し、大騒ぎとなります。夫のマネージャーからそれを聞いた希林さんが区役所で確認すると勝手にサインと押印がされていたという…。提出後ハワイに行っていた内田さんがそれから10日後に帰国し真意を聞くと「女として愛せないところがある」と離婚の意思が固いことを世に知らしめます。一方希林さんは「離婚はしない」と裁判を起こし、翌年婚姻の継続が認められ、それまで通り別居婚を続けることに。亡くなるまで約44年間の別居婚となりました。
うーん。ここまででもかなりふしぎなお二人の関係…。家庭内暴力の時点でほとんどの方は耐えられないと思うし、勝手に離婚届け出されたりしたら怒りに任せて離婚してもおかしくないところを、きちんと記者会見で内田さんへの思いを語り、離婚届け無効の判決をとるために裁判もするなんて。希林さんにしかわからない内田さんの魅力があったんでしょうね。よっぽど惚れてないとここまではできないですよね。希林さん、強し!!
別居、それでも愛情は鈍ることなく…
内田さんとの別居後、樹木さんはメキメキ頭角を現し、日本を代表する大女優さんとなりました。20代の頃から老人役をこなすなど昔から個性派な彼女は、唯一無二の存在となり、ドラマや映画にひっぱりだことなります。一方の内田さんですが、歌手活動だけでなく俳優や脚本家としても活躍していました。そんな中、1977年に薬物取締法、1983年に銃刀法違反、2011年に住居侵入と3度も逮捕されてしまいます。最後のは、恋人であった女性から別れ話をされた内田さんが復縁を何度も迫り警察に注意されていたにもかかわらず起こしてしまった事件とされています。この事件後、夫の不祥事に樹木さんが謝罪会見をし、相手女性に「今回のことを晒してくれてありがたい」と感謝の言葉を述べています。内田さんもこの後謝罪会見を行っています。こんなことがあっても別れない二人。樹木さんのおっしゃったことにこんな言葉があります。
「何もかもが好きです。生まれ変わったら出会わないようにしないと。出会ってしまったらまた好きになって大変な人生を送ることになると思うから」
これ、何のことかわかります?樹木さんが内田裕也さんについて語った言葉なんです。どんなことがあっても彼が好き。そんなまっすぐな思いがこの言葉ににじみ出ていますよね。
それまでは年に1度くらいしか連絡のやり取りをしてこなかった二人ですが、2005年に樹木さんが乳がんを患うと1ヵ月に1度は連絡を取る仲になったそう。以降毎年1月になると一緒にハワイに行き時間を共に過ごしたそうです。
樹木さんが亡くなる直前、親族の方が内田さんに電話をかけ、意識が遠のく樹木さんに内田さんが電話越しに名前を呼んでいたというのは有名な話。それからほどなくして息を引き取ったそうですが、最後の最後に最愛の内田さんの声を聞くことができて希林さんは幸せに旅立てたんじゃないかなあと思います。葬儀の時は希林さんの顎の骨を内田さんはポケットにしまっていたそうですね。最後まで愛し合っていたことがうかがえます。
今回、希林さんに続き内田さんも旅立たれました。今頃夫婦生活を振り返って笑いあっているでしょうか。とても愛情に溢れたご夫婦。お二人の逸話はこの先も語り継がれていくでしょう。
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